「江原会」の名称について
明治33年4月20日、本校は当時の中学済々黌を二分して第二済々黌として開校式を行った。その後熊本県立熊本中学校となり、明治37年(1904)10月30日、藪の内の済々黌時代からの旧校舎より、大江村の新校舎に移転した。明治43年3月以後、この日が創立記念日と決定された。
この移転に先立ち、校内で文芸雑誌を発行することとなり、その名称を新校舎が建設中であった大江原頭にちなんで『江原』と命名され、その題字は野田校長が書かれた。
熊中・熊高を通じた同窓会である「江原会」は、熊中第一回卒業生を中心にして、大正6年(1917)5月に誕生した。その名称も大江原頭にちなんで野田校長がつけられたのである。
さらに同窓会員諸氏をつなぐ会紙、「江原会々報」は昭和42年(1967)10月に第一号が発刊された。
このように振り返ってみると、済々黌二分割後の本校及び江原会の歴史はまさにこの大江の地にあるのであり、熊本市の人口動態調査で、現在ここがその重心になっていることを思えば、この地を選んだ先人たちの先見の明にあらためて敬服するのである。
この移転に先立ち、校内で文芸雑誌を発行することとなり、その名称を新校舎が建設中であった大江原頭にちなんで『江原』と命名され、その題字は野田校長が書かれた。
熊中・熊高を通じた同窓会である「江原会」は、熊中第一回卒業生を中心にして、大正6年(1917)5月に誕生した。その名称も大江原頭にちなんで野田校長がつけられたのである。
さらに同窓会員諸氏をつなぐ会紙、「江原会々報」は昭和42年(1967)10月に第一号が発刊された。
このように振り返ってみると、済々黌二分割後の本校及び江原会の歴史はまさにこの大江の地にあるのであり、熊本市の人口動態調査で、現在ここがその重心になっていることを思えば、この地を選んだ先人たちの先見の明にあらためて敬服するのである。