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江原会史 (熊中・熊高百年史より転載  ※内容は平成12年当時のものです。

 
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第五節 江原会の今と将来(8)
(支部)熊本県庁江原会
 明治の廃藩置県と県庁発足以来の諸先輩の活動をうかがう資料は残されていないが、県庁江原会が今日の姿を表してからでもすでに半世紀を刻もうとしている。昭和二十八年(一九五三)熊本が歴史始まって以来の大水害に見舞われた年、熊高野球部が見事県民の期待を受けて甲子園出場を果たした。県庁では当時の蟻田重雄衛生部長が音頭をとって職場としての寄付集めを行った。 県庁江原会はこの時から組織化されたと言われている。 この野球部はその後昭和三十年(一九五五)にも再び甲子園の土を踏んだので、県庁江原会の組織も一層強化され、その第一回会合が、当時の県庁の敷地の一角にあった中央保健所(現在の交通センター)で開催されている。当時の会員数は、百四十名程度であったということである。
 昭和二十六年には、県議会議員として田中典次(中30)ほかの誕生があったため、県議会議員に本会の顧問として就任頂くこととした。それ以降、歴代の県議会議員諸氏には県庁同窓会活動の相談役として、本会の発展に尽力をいただいてきている。
 昭和三十二年(一九五七)に、県庁職員の公募採用制度が本格的に導入されることとなり、本会の会員数も少しずつ増え続け、昭和四十年(一九六五)以降は飛躍的な増加をみている。なお、この昭和三二年を契機に女性会員も登場し、同窓会活動に華を加えることとなった。
 会員数が増えるに従って、次第に組織としての体裁を整えることが必要になり、会長、副会長、幹事といった役職が生まれ、それぞれ世話役として尽力を頂いた。当時の主な方々としては、藤本伸哉(中39)、松谷吉次郎(中40)、永原順 (中41)、島田謙一(中43)、桝田義一郎(中44)衛藤成一郎(中45)、北岡勇雄(中47)等の諸氏の顔ぶれが浮かんでくる。各氏のご努力により本会の草創期が花開いた。組織の充実と共に、次第に会員数も増え、昭和四十五年(一九七〇)には、三百名を数えることとなり、次第に今日の発展の基礎が出来上がった。
 昭和四十六年(一九七一)には、知事に沢田一精(中39)が就任し、同時に本会の名誉会長にも就任した。同氏の知事在職はその後十二年に及び、その間本会に大変強力な支援を頂くこととなった。また、昭和五十年(一九七五)には、副知事に藤本伸哉(中39)が就任し、その年から昭和六十二年(一九八七)まで会長としても永きにわたる尽力を頂いた。
 一方、県議会においては、昭和四十二年(一九六七)以降選挙ごとに、江原会出身の議員が加わり、昭和四十八年(一九七三)に田中典次(中30)が、次いで昭和五十年(一九七五)には小谷久爾夫(中43)、更には昭和六十三年(一九八八)には米原賢士(高9)が相次いで議長に就任した。その間、昭和五十四年(一九七九)には江原会出身の議員数は、各党各会派にわたり十名を擁するに至った。
 現在、県庁江原会は県庁各部局、教育庁、警察本部を含めて会員数六四三名を擁し、県議会議員四名にも顧問として加わっていただいている。
 現在、会長に村上公佑農政部長(高11)、副会長に前田浩文商工観光労働部長(高12)と宮良行雄県スポーツ振興事業団常務理事(高12)が就き、各部局に幹事を置く組織である。会則等は一切無く、すべて慣行により運営されている。
 主な活動は、毎年五月に新しく採用された職員の歓迎会を兼ねた総会を開催し、顧問である県議会議員諸氏や母校からの出席を頂いている。当時の様子を知る先輩によると、昭和四十年(一九六五)代前半には酒は二級しかなく、それも話に夢中になっているとすぐに無くなってしまう状態であったが、後になって乾杯用のビールが四、五人に一本の割合ででるようになったとのことである。最近では、飲むのはそっちのけで、久しぶりに懐かしい顔ぶれに会えるということで話に夢中になって、飲み直しは気のあった者どうし、三々五々二次会に繰り出しているようである。二次会といえば、一時期、総会が済々黌と同日開催という年が続き、二次会で一緒になって交歓している光景があちこちで見られたものである。
 このほかの活動としては、各種行事への賛助として、藤崎宮秋季例大祭で飾り馬奉納を行う青年江原会や、熊高野球部後援会と最近全国大会出場を重ねているラグビー部への援助等の活動を行っているが、常に母校の発展を祈り、士君子精神を発揮して運営されている次第である。

 

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